社長とらかんスタジオ

 

それから26年、写真一筋

Brooksという写真学校を卒業したのが1986年の3月。それから26年、写真一筋でやってきた。思えば色々あったなぁ。らかんスタジオに入社したのは1987年で、当時は本店しかなく、写真スタジオが2階、1階はカメラ店だった。学校写真も叔父が主に担当していて、いわゆる写真業務全般を請け負う兼業店であった。吉祥寺の中心地に古くからやっていたこともあり、フィルム現像は1日に数百本を受注する日もあった。となりのロンロン(現アトレ)という駅ビルにも小さいながらお店があり、そこでも同じく1日に100本は受注していたと思う。最初は父が始めたのだが、1987年からは僕が毎朝ひとりで8時30分には店を開けて、通勤客がフィルムを置いて行くのを受け付けていた。10年は続けただろうか。社員さん達は9時30分に出社なので、その間の1時間はひとりで切り盛りした。暇なときは日経新聞を読んだり、忙しいときは、2階のスタジオで証明写真も撮ったりしていた。でも、僕は一貫して「撮影」をやりたかった。なぜなら、らかんスタジオは元々は写真館であったし、僕自身、写真学校を卒業して撮影技術が大好きだったからだ。

吉祥寺本店は場所がら証明写真が多かった。僕が入社する以前は、証明写真のネガ管理は鉛筆でノートに記載し、焼増の注文が入ると手作業でネガを探すという方法だった。焼増の順番は、お客様からアバウトな記憶による撮影日を聞き出し伝票を起こす。その「アバウトな記憶による撮影日」を基にノート上でネガの保管箱を特定する。箱にはおよそ500枚ほどのネガが袋に入っていて、名前が手書きで記載されている。その中から一生懸命に一枚一枚めっくって探し出すという超アナログ方式だった。もちろん初回の撮影時には、鉛筆で名刺サイズに切った紙片に手書きでお客様の名前や撮影日を記入し、ネガと照合しながら保管箱に入れるという作業があった。

僕はちょうどデータベースを学校でもかじっていて、さらに修業先のデザインTとダンロップ&ターニー・スタジオでも勉強していた。1987年の年初、僕が26才のときに親父に頼んでパソコンのセットを会社に買ってもらった。今思うと、恐ろしくのろまな機械なのに100万円以上もするセットで、しかもバカでかかった。このパソコンで最初に取り組んだのが、証明写真のデータベース化たっだ。5インチのフロッピーディスクを出したり入れたりしてMS-DOSと格闘した。ソフトは管理工学の桐で、パソコンはNECのPC-9800と言う組合せだった。最初は、前述の作業に新しく「入力という作業」が加わり、作業者からは「面倒くさい、時間の無駄だ」と非難の声が飛び交った。でも、半年ほど経ち、データベースのおかげで「探し出す」という作業が楽になることが実証されると、社員さん達は協力的になった。

1989年、僕はAppleのクラシックを手に入れた。理由は、1986年に前述のデザインTに勤めていたときの経験からだ。僕が働いていたデザインTというコマーシャルスタジオは、サンフランシスコの中心地にほど近いNoe Valley(ノイバレー)の外れにあった。1986年にはすでに回線を通じ、メールで撮影の注文が来るという環境がそこにはあった。その時のパソコンがMacだったのだ。当初、僕は面食らった。なぜなら、メールというものが初めてで、「メールで注文するなら電話かFAXでしてくれよ、その方が意思の疎通が出来るじゃないか」と思ったからだ。しかし、それは幼稚な考えだった。当時、Appleのお膝元のサンフランシスコでは、メールの確実性と利便性が社会に浸透し始めていた。僕は、すなわち「メール時代」の始まりに直面していたのだ。今思うと、ものすごい幸運に恵まれていた。もし、そのスタジオにMacがなければ、その偉大さを感じることもなく過ぎていたからである。

1989年に購入したクラシックは驚くほど早かった。ソフトはファイルメーカーを使用した。NECのPC-9800にため込んだ数年分のデータを移し替えた。当時の日本語版のMacOSは「漢字トーク6」が登場し、ようやく日本でMacが売れ出したところだった。価格も小さいながら100万円した。しかし、クラシックには現在でいうLANケーブルでつなぐと言う概念がすでに存在していた。アップルトークと呼ばれるもので、複数のMacを電話線でつなぐことが出来た。これで、1階の受付、2階のスタジオ、3階の作業場で、瞬時にデータを共有出来る環境が整ったのだ。画期的だった。

1989年は日本もバブル経済の真っ最中で、良い悪いは別として活気に満ちあふれていた。僕は撮影に力を入れたいという思いが強かったが、会社の売上の三分の二はプリント受付業務のDPEによるものだった。「写るんです」という使い捨てカメラの普及で、いままでカメラを持っていなかった高校生や中学生、年配の女性までもが写真を撮る時代になっていた。正直、DPEの受付業務よりも撮影をしたかったのだが、無理をすると生活が出来なくなるのは目に見えていた。写真館業界は、ホテルや式場に写真室を持っているところが成功し、うちのような兼業店は下に見られていた。ホテル式場に入っていないと写真館ではないと言うような空気が感じられた。しかし、今となってはホテル式場に入っていなかったことで独自の進化を遂げることが出来たのだと思っている。

パソコン通信で、遠隔地の友人と情報共有を始めたのは1991年頃だったと思う。僕は親父の勧めで印画紙研究会という写真館業界の勉強会に入会した。そこで僕のことを買ってくれたのが、徳島県の立木写真館の立木利治さんだった。立木さんを通じて僕は多くの研究発表をさせてもらい、また、いろいろな人に会わせていただいた。その中に香川県で写真館をしている同年代の小山昌昭さんがいた。小山さんはAppleが大好きで、デジタルのことに詳しかった。その小山さんに勧められて始めたのがFirstClassというカナダのSoftArc社が開発した通信ソフトだった。それで東京にホストを開設し、写真館仲間がここで情報交換をした。

1990年代に入ると、 DPEは「0円プリント」とか、ミニラボを導入して1時間仕上げを行なうなど、競争の時代になった。価格も徐々に下落して80年代はLサイズ1枚40円だったのが、1995年頃は32円とか28円が当たり前になり、クリーニング店とかでは「0円プリント」なるものも出始めた。らかんスタジオも、外注先の現像所の反対を押し切って、ミニラボを導入して1時間仕上げを始めたりした。しかし、僕の中でデジタルに移行することを決意したのは1992年に「AppleのMacintosh IIci」の中古を手に入れたのがきっかけだった。IIcxのビデオ回路内蔵モデルで性能と拡張性のバランスがよく、高価にもかかわらず好調な販売を記録したモデルだ。これにAgfaのスキャナーを買って、デジタル画像に取り組んだ。1990年に最初のバージョンである Photoshop 1.0 が発売されており、多分最初はPhotoshop 2.0、そして1993年に使用したのはPhotoshop 2.5で、まだレイヤー機能がないアプリであった。1993年に富士フィルムからピクトログラフィーという高性能のデジタルプリンターが発売されると、待ってましたとばかりに購入した。

しかし、問題があった。それはネガのスキャンである。1994年頃、当時150万円ほどしたイマコンのFlextight Precisionを導入することで、スキャンの問題は一挙に解決した。証明写真はデジタル化へ加速した。ネガで撮影、現像機でネガを現像、Flextightでスキャン、デジタル化したものをPhotoshop 2.5で修整、ピクトログラフィーで出力という流れだ。1995年以降はすべての証明写真をデジタル処理をして納品した。カラー撮影による記念写真はまだデジタル化できなかった。理由は色が悪いのである。どうしてもPhotoshopで修整が必要なものだけ、自社でスキャンして修整を施し、外注してネガに出力してもらいプリントをしてもらった。色の問題はピクトログラフィーにあった。証明写真では問題はないのだが、大きなプリントにするとまだまだ未完成で、写真館としてお客様に納品できるものではなかった。

1995年になるとバブル崩壊のツケは巷の零細企業にも影響が出て来た。デフレによる競争の激化である。特にDPEの売上は頭打ちとなり危険を感じる様になった。しかし、当時の日本では、富士フィルム、コニカ、コダック、それに問屋、販売会社、現像所、すべてが「まだまだ銀塩写真だ」と連呼し、「デジタルは良くない、色が悪い、ぺらぺらな感じがする」などと風潮していた。僕はとんでもないと思っていた。なぜなら、すでにアメリカの写真館の友人達は、「これからはデジタルの時代だ、勉強をしないといけない」と、日本とは正反対であったからである。メーカーが「まだまだ銀塩写真だ」と日本のユーザーに圧力をかけていたのは、2004年を過ぎてもまだ続いていた。笑ってしまうが本当の話だ。結局、フィルムメーカーは消滅してしまった。問屋や現像所に至っては悲惨な幕引きになったところが多く、経営者の中には自殺者が出るほどだった。

1995年の夏、僕は久しぶりにアメリカの写真家協会PPAが主催するコンベンションに参加した。場所はシカゴの郊外で開催され、ひとりで参加した。そこで、素晴らしい写真家の講演を聴くことが出来た。Phillip Stewart Charisさんと言う方で、大型の絵画調の写真を撮影している人だった。もうひとり、旧友にも再会した。写真学校のときの友人でインドネシアのジャカルタから留学していたIndra Leonadi君だ。彼は僕よりも若いにも関わらず活躍していた。すでにPPAのマスターという称号を取得しており、写真も抜群にうまかった。このふたりとの出逢いが、その後のらかんスタジオの写真に大きく影響したと言っても過言ではない。絵画調の写真は、「ライティング」と「修整」が大切だ。このことをふたりから学んだ。

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

CAPTCHA